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高千帆地域交流センターを出発します。自動販売機があります。
高千帆地域交流センターを出て高千帆福祉会館の前を通り南(左)に向かいます。歩道橋のある交差点を高泊方面(右)へ向かって歩きます。歩道は整備されてますが、車通りが多いので車の往来に注意しながら歩きましょう。
ドラッグストア、コンビニの前を過ぎます。歩道に縁石がありませんので気を付けて歩きましょう。
高須バス停を斜めに入る道がありますので歩いていくと、高須自治会館と市岐嶋神社(厳島神社)が見えてきます。
市岐嶋神社は来嶋又兵衛の生誕の地です。
市岐嶋神社を出てコンビニの横の道まで引き返し、北方面(左)に歩きます。車通りは少ない道ですが、歩道がないので気を付けて歩きましょう。
道なりに進んでいくとT字路になりますので東方面(右)に曲がります。長田屋下踏切が見えてきます。
長田屋下踏切を渡って、北方面(左・上り方面)に向かって歩きます。山陽本線が走っていますのでここで電車を見ることができます。
道なりに進んで行くと、高千帆ふれあい児童公園(南平原)への入口が見えます。
南平原公園は遊具や休憩スペースがあります。
立派な藤棚がありますので藤の花が咲く季節はおすすめです。
南平原公園のトイレです。2階建てのトイレです。トイレのそばには大きなイチョウの木があり、紅葉の時期が見ごろです。
南平原公園を出て東方面(右)に道なりに歩いていきます。
大きく道なりに曲がった後に長田屋川沿いに道路があります。この道路は車が入れないので景色を眺めながらウォーキングを楽しめます。
長田屋川にはカメが甲羅干しをしており、田んぼ近くではサギが飛んでいる様子も見ることができました。
川沿いの道を過ぎますと、先ほど通過した長田屋下踏切が見えます。踏切を渡らず、くし山方面へ東(左)に向かって歩きます。しばらく道なりに歩くと道路沿いにお地蔵さまがおられます。お地蔵さまから南(右)に向かって歩いていくと、くし山跨線橋がみえてきます。
くし山跨線橋下には歩行者や自転車が通ることのできるトンネルがあります。ウォーキングされる方が安全に通行できるようになっています。
トンネルから出ると歩道も整備されており、歩きやすい道です。道なりに進むとくし山地下道の入口が見えます。くし山地下道を通過すると高千帆地域交流センターに到着します。
もう少し歩きたい方はくし山地下道を通らずに、道なりにまっすぐ歩きます。スマイルキッズ(山陽小野田市子育て総合支援センター)前を通過します。第2日の出跨線橋を通り、JR小野田駅前から高千帆地域交流センターに戻ることもできます。約1kmほど長く歩くことができます。
歩幅(センチメートル)=身長(センチメートル)×0.45(歩く速度、普通に歩いたとき)
歩く速度が普通の場合1時間約4キロメートル歩くことができます。
高千帆地域交流センター→市岐嶋神社(厳島神社)→高千帆ふれあい児童公園(南平原)→高千帆地域交流センター
高千帆地域交流センター→市岐嶋神社(厳島神社)→高千帆ふれあい児童公園(南平原)→スマイルキッズ(山陽小野田市子育て総合支援センター)→第2日の出跨線橋→JR小野田駅前→高千帆地域交流センター
来嶋又兵衛は、文化14年(1817年)旧西高泊村高須にて、萩藩士「喜多村左治馬正倫」の二男として出生しました。幼名は光二郎と言い、少年時代をこの地で過ごし、20歳で大津郡俵山(現在の長門市)の来嶋又兵衛政常の婿養子となり、又兵衛政久と改名しました。
又兵衛は、剣の腕前は新陰・神陰両流の免許皆伝。槍術・馬術にも優れ、加藤清正の再来とか鬼又兵衛などと呼ばれました。また、正義感が強く、几帳面で行政面にも通じ、藩の要職を歴任しました。
文久3年(1863年)の禁門(蛤御門)の変で、又兵衛は長州藩は一時”朝敵”の汚名を受けましたが、王政復古により名誉を挽回し、又兵衛には、明治24年(1891年)に正四位が贈位されました。(出典:小野田市史)
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健康増進課(保健センター)下記メールアドレスまでお願いします。
hokenc@city.sanyo-onoda.lg.jp