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常設展示 山陽小野田市の歴史と民俗

常設展示

企画展開催時に、一部を展示しない場合があります。

農漁民のくらし

わたしたちの祖先は、久しい間、農業と漁業を中心に暮らしてきました。ここでは、その暮らしの有り様や生活用具、農業・漁業の生産器具、生産の様子を紹介します。ジオラマ「囲炉裏のある部屋」では、近代化される前の農家の生活を再現しています。

農業 囲炉裏のある部屋

原始から古墳時代

かつて山陽小野田市南部の竜王山周辺では、土質が適していたため須恵器の生産が盛んでした。セメントややきものなど近代の窯業の歴史の原点であると言え、現在でも須恵という地名が残っています。ここでは松山窯跡や塚の川古墳などから出土した多数の須恵器を中心に紹介します。

古代1 古代2

近世

山陽小野田市は、平野部の多くが干拓や埋立によって造られたところです。最初に大規模に毛利藩によって造成されたのが、現在市役所や小野田駅がある、寛文8年(1668)の高泊開作400町歩(ha)でした。それら開作の歴史を当時の史料やジオラマで紹介します。また、山陽小野田市で生まれ、蛤御門の変で有名な来嶋又兵衛の書簡なども紹介します。

干拓ジオラマ 近世2

石炭

山陽小野田市は昭和中期まで数多くの炭鉱を有し、炭鉱の町として栄えました。この歴史は、江戸時代までさかのぼることができます。昭和30年代において、多い時で炭鉱の労働者は5000人余りいましたが、昭和40年までに、エネルギー革命を経て衰退しました。ここでは、採掘手続きに関する史料や採掘に使われた道具を紹介します。

石炭 石炭1

やきもの

山陽小野田市では、かつて製陶業が盛んでした。天保末期(1840頃)に陶工甚吉が旦で登り窯を開いたのが始まりです。その後、明治24年(1891)に日本舎密製造(株)(現在の日産化学工業(株))が操業した後、この地の粘土が耐酸容器に適していたことから急速に発展し、最盛期には26社30数基の登り窯の煙突が見られました。しかし、昭和30年頃から容器の原料が変わるに連れて衰えてしまいました。ここでは、製陶所の様子や道具、実際に作られた硫酸瓶などを紹介します。

硫酸瓶など 皿山風景ジオラマ

セメント

名誉市民である笠井順八は、明治14年(1881)に民間初のセメント製造会社(のちの小野田セメント(株)、現在の太平洋セメント(株))を設立しました。小野田銀行の設立や小野田軽便鉄道の開通、日本舎密製造(株)の誘致などにも尽力し、現在の産業都市山陽小野田市の礎を築きました。ここでは彼の遺品やセメント工場の変遷を紹介します。

セメント1 セメント2