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【厚狭地域交流センター】女性学級 第4回教養講座「毛利勅子と船木女児小学」を開催しました。

女性学級 第4回 教養講座「毛利勅子と船木女児小学」

     日  時  : 令和6年8月22日 (木曜日) 9時30分~11時00分

    講  師   : 山口東京理科大学 土井 浩 様

    参加者   : 27名

   講師の先生 

   講師の先生

 

   講座の様子1   

   講座の様子1

 

   講座の様子2

   講座の様子2

 

講座概要

 第4回目の女性学級は、「毛利勅子と船木女児小学」をテーマに山口東京理科大学の土井浩先生を講師にお招きしてご講演いただきました。

 ①(地元山陽小野田市で必ずしも周知されていない)毛利勅子の業績についての知識・理解を深めること。②船木女児小学への勅子の関わりを学ぶことにより、今日の多様性の時代における女性の生き方について考える。の2点をねらいとして講話を進められました。

 徳山藩主の七女として生まれた勅子は後に厚狭毛利家の奥方となり藩政に従事する多忙な夫を支えました。幕末の勅子の生き方はまさに「内助の功」。

 そして、明治維新。国民皆学的方針が宣言された「学制」は頒布されましたが、女子教育はなかなか進みませんでした。明治6年、船木区長兼重慎一は船木に女子の教育機関を設立することを県に請願しました。勅子はこれに協力し、校長兼訓導(教師)として54歳のときに着任し、亡くなるまでの6年間、船木女児小学で女子教育に尽力しました。

 学校設立当初は生徒7名、年齢は5~16歳で平民の女子もいたそうです。素読・習字・算法や裁縫などの家庭科的な科目に加えて、清掃活動、礼儀や言葉遣い、立ち居振る舞いなどの指導も行われ、いわゆる全人教育がなされていたようです。

 しだいに生徒が増え、厚狭・船木とともに山口や宇部・豊浦などの遠方から来学するようになり、明治11年、勅子は、教師としての仕事に加えて、新校舎の建設も手掛けます。相当の激務であったであろうと思います。明治12年4月には二階建てガラス張りの近代的な新校舎が完成しましたが、勅子がこの校舎を見ることはありませんでした。「徳基学舎」と命名されました。

 明治17年には中等学校に昇格し、「徳基高等女学校」と改称されました。(その後も何度も改組され校名も変わったそうです。)明治41年には、船木から厚狭に移転しました。そして、昭和24年、厚狭女子高等学校と厚狭高等学校(前身は厚狭中学校)が統合され男女共学の厚狭高等学校となりました。

 明治維新後の勅子は、校長、教師として女子教育の振興・発展に尽力した、まさに「信念と行動の人」でした。今日は多様性が尊重され、様々な生き方が求められています。女性の活躍も不可欠です。勅子の生き方を通して自分のこれからの生き方を考えるきっかけとなる貴重な学びとなりました。

 

女性学級は、途中からでも受講できます。興味のある方は厚狭地域交流センター(72-0507)までご連絡ください★

   次回第5回目は、9月19日(木曜日) 教養講座「広告や歌謡曲にみる女性像」です。

   講 師:  元山口市福祉センター 石丸 義臣 様